茶の湯の道 (2000.02.15)

漆塗りと螺旋階段 (2000.03.06)

溜め池づくり (2000.03.16)

殿軍 (しんがり) (2000.04.10)

温故知新 (2000.06.4)

立花道雪 (2000.06.4)

曜変天目茶碗 (2000.06.5)

達人二人 (2000.09.11)

鬼謀の人 (2001.04.5)

関ヶ原 (2001.06.29)

儒の教え (2001.10.01)



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アルカディア (2003.04.13)

鮎師 (2004.06.29)

治水の要 (2005.03.20)

萌葱と浅葱 (2005.03.20)


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茶の湯の道

 茶道の原形は“闘茶”であるという。利き酒ならぬ利き茶をやって、茶葉や水の産地を言い当てるという。一種の賭け事である。室町中期、おそらく義満の日明貿易によって輸入された遊びであろう。強い者を“数寄(すき)もの”とよぶ。東洋版ソムリエである。日常の飲料をとことん知り尽くすという精神は洋の東西を問わぬものらしい。 ただし、改良国家“日本”はそれだけで終わらない。一休和尚に禅を学んだ村田珠光は、この遊びを芸術に、さらには“道”へと昇華せしめた。そして、階級社会の打破を標榜してこの道を大成させたのが、利休、ということになる。

 茶の湯のこころ (精神) とは、「一期一会」という言葉に集約されよう。今生一度きりの出会いと思い、大切に人と接せよ。では、これを十分条件とするならば、必要条件はなにか?それがいわゆる“わび・さび”のこころである。虚飾を捨て去るこころ、すなわち“わび”。虚飾を取り除いたうえで真実を希求するこころ、すなわち“さび”。

 わたしはこの精神を大学院のゼミで学んだ。自分に発言の機会があると、つい知識や経験の豊富さをひけらかしたり、さも分かっているぞといわんばかりに相手の非を挙げつらってしまうことがある。が、そんなものは虚飾でしかない。もちろん知識や経験による理論の裏打ちは重要であり、非をただしてあげるのもゼミの重要な役割であるのだが、問題はその発言の源がどこにあるかということだ。自分の発言が真理と虚飾のどちらから発せられたか? これは真摯に自問すれば分かってくる。そしてその見分けがつくようになると、偉大な先生の言葉が如何に虚飾の削ぎ落とされたものであるか、そしてそれでいながら如何に暖かみと広がりのあるものであるか、ということが分かってくる。大学教育の在り方が問われている昨今であるが、私の場合、専門的な知識や技術の習得よりもまず、この“わび・さび”のこころの体得が貴重であった。

 一流のいくさ人であり政治家でありそして茶人であった島津義弘はこう言っている。「茶は要らざるもの」。高価な茶道具を買い集め、格式張った茶会などを開かなくても、己の日常の中で茶の湯の道は極めることができると。

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漆塗りと螺旋階段

 織田信長からの使者を引見した武田信玄は、その者が携えてきた献上品には目も呉れず、それが入っていた漆塗りの箱を近習のものに切り付けさせた。そしてその切り口の、七層に固化した漆を確認し、満足そうな笑みをもらしたという。七度塗りは漆器のなかでも最高級品なのである。「ただの容器にさえこれほどのものを用いるとは、さても信長、よほどわしを恐れておるな」、というわけである。本心を見抜くために献上品そのものではなく、容器の品質を検めるという信玄も信玄だが、その行動を予測した信長、流石である。裏をかいた筈が逆に読まれていたという信玄の話は、川中島の“きつつき戦法”や直江兼続の逸話にも見られるので、あながち後世の作り話と片づけられないところがあるが、それはさておき、ここで強調したいのは漆器の最高級品は“七度塗り”ということである。

 どんな名人であっても、たった一度の塗りで完璧なものを作るのは不可能である。薄く塗り、乾かす。ひたすら時間をかけて七度、この作業を繰り返すことにより、ムラのない最高級の漆器が出来上がるのである。このことは学習の過程においても言えるのではないだろうか。たくさんのことを一度に習得しようとしても、完全なる理解というものはなかなか得られない。もし得られたとしても、それは極めていびつで誤解に富んだものであったり、またしばらく時間が経つと剥がれ落ちてしまったり。そしてまた、知の体系というのは、ある一部分だけで完全には閉じていない。一見関連のないような他の様々な知識を含めて、繰り返し、繰り返し、学習することによりはじめて、徐々に理解は深まるものであろう。

 榧根勇はその著書「水文学(すいもんがく)」のなかで、学問の発展を“螺旋的”と表現している。これも、個人の学習・成長の過程に置き換えることができるだろう。螺旋階段を登っていると、ある時、以前見たことのある風景に出会う。そしてその景色は視界から遠ざかるのだが、またやがて飛び込んでくる。登りつづけていると何度も何度も同じ感覚を味わうようになる。「なんだまたこれか!」まるで堂々巡りである。しかし、それはけして無駄なことではない。注意深く観察していれば、少しずつ風景に変化が生じていることに気づくはずだ。なぜなら、着実に足場は高くなっているのだから。視野は広がっているのだから。

 話を敷衍すれば、重ね塗り・堂々巡りの重要性は、ひょっとするとこの世のあらゆる事象、すなわち森羅万象について普遍的に適用できるかもしれない。例えば、種の多様性の保存が叫ばれているのもおなじ理由であろう。単一の生物からなる生態系は破綻する。農業におけるモノカルチャー(単一栽培、単式農法)の弊害はその好例である。役割の異なる様々な生物が補完的に作用する事で自然界の微妙なバランスは保たれているのである。雑草も、害虫も、ある一つの尺度ではマイナスでも、トータルで見ればけして無駄な存在ではない。そう考えれば、凡人である私にも、なにがしかの存在意義はある筈だと、歩み続ける事ができるのである。

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溜め池づくり

 記紀の伝えるところによれば、天孫降臨から神武東征、そして第9代開化天皇まで、具体的な施政の記録は一切みられない。それゆえ、ヒコホノニニギ〜神武天皇は神話と歴史の橋頭堡であり、後の8代はそのギャップをぼかすために挿入されたフィクションである、という見方がある。つまり、大和朝廷は第10代・崇神天皇より始まった可能性が強い。その崇神紀に、河内平野における灌漑用溜め池の築造の記述がある。我が国最初の公共土木事業の記録である。

 国家が形成され、権力が集中するようになって初めて、大規模な土木事業が可能になったと考えるべきであろうが、と同時に、その遂行の過程が集団的結束力の強化、優れた統率者の希求を通じて、大和朝廷の成立に正のフィードバックをもたらした一面もあるのではなかろうか。秀吉が天下統一後、城郭造りに熱心だったのも、家康が河川改修を奨励したのも、戦のなくなった世の中でなお集団指導力を発揮しつづけたいという魂胆の発露である、というのはうがった見方であろうか。とまれ、土木事業には、その真の必要性以外のところで、重要な効用があるらしい。

 こうした構図は、“土建国家”とやや自嘲気味に語られる今日の日本においても当てはまる。もっとも、その魂胆としては集団指導力の維持というよりもむしろ、“金(カネ)”の循環を良くするという経済的効用が含まれるが、それも結局は権力の有り難味を強調するものにしか過ぎない。現在、各地の河口堰、飛行場建設に対して逆風が強い。その真の必要性と環境問題とを秤にかけるならば、その計量はもう少し科学的に、客観的に、為され得る筈だ。しかし、政治家・官僚は裏の魂胆ばかりに固執し、民衆は不信感をつのらせ、公共土木事業に対し過剰反応してしまう。吉野川可動堰建設問題における住民投票とは、為政者の暴走を危惧する民衆による“安全弁の発動”と見るべきだ。“民主主義の誤作動”なんかではなかろう。

 とはいえ、政(まつりごと)は、科学的に、客観的に、そして機械的に為し得るものではない。時には不明なる民衆の意に逆らい、本来の正道に導くのが真の為政者の役割でもある。ただし、条件がある。それは、「蒼天航路」(王欣太)の曹操孟徳の言を借りれば、“億の民を食わせる気概”である。現代で言えば、百億、あるいは千億の民に相当しようか。つまり、一部の人々のためだけでなく、日本あるいは全世界の人々のためだけでもない。今後生まれてくるであろう人々も含めて、その全てを食わせてゆく確固たる自信があるのなら、堰でもなんでも作り候え。評価は後世が決めてくれる。

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殿軍 (しんがり)

 「家康に 過ぎたるものが 二つあり 唐の兜に 本多平八」
松平軍の撤退にあたりその最後尾を守った本多平八郎忠勝のいくさぶりは、武田家中をしてこう唄わしめたと云う。古来より、勝ち戦で手柄を立てるは容易いが、負け戦の殿軍(最後尾部隊)を務めるはよほど難しいといわれている。“退き佐久間”の異名を取る佐久間信盛や“逃げ弾正”と称される高坂弾正昌信も、本多忠勝同様、その退却戦の上手を賞賛された者達である。

 人生勝ちっぱなしで笑いが止まらない、なんて人は世の中にあまり多くはいないだろう。いやむしろ、思うに任せず負けを余儀なくされるシチュエーションの方が多いのではなかろうか。であれば、如何に善く負けるか、というのは長丁場の人生を生き抜く上で、非常に重要なテーマであろう。一つの負けにいつまでも拘泥していても、ただ徒に傷口を広げるだけであり、次に来る勝ち戦のチャンスも見逃してしまう。負けによるダメージを最小限にとどめ、気力・体力を温存してこそ、数少ない勝機をものにする事が可能となるのである。

 昨今の青少年犯罪を見聞きしていると、たった一度のつまづきで、人生を大きく狂わせてしまっている感が強い。逆境に弱い、危機管理能力が無い、といってもよいかもしれない。「君子危うきに近寄らず」の言葉通り、負け戦に加わらぬよううまく立ち回る要領の良さが尊ばれがちな時代ではあるが、負け戦を避けてばかりでは己の心胆を練ることはできまい。負けグセをつけろ、というのではなく、大敗せぬための上手な負け方は練習しておいた方がよい。

 恩師の一人に、トラブルがあるとむしろ生きいきとする人がいる。危機に臨んで、心が竦まない。客観的に状況を分析し、即座に最善の対策をひねり出す。まさに、卓抜した殿軍指揮官の器である。不運を恨んですぐにくさってしまう私などは、その姿勢に接することでどれだけ救われたことか。

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温故知新

 韓非子らの法家思想に傾倒した秦の始皇帝による中華統一の覇業は、焚書坑儒に代表されるその行き過ぎた圧政のゆえに、程なくして崩壊した。そして、民衆に担ぎ上げられた漢の高祖・劉邦は、秦都・咸陽に突入するや否や、それまでの煩瑣な法体系を廃止し、非常に緩やかな施政を展開した。こうして衆望を集め、漢帝国400年の礎は築かれたのである。

 奇しくもその400年後、劉邦の血を継ぐ劉備玄徳が、長い流浪の旅に別れを告げようやく三国鼎立の足場として蜀の地を手にした頃、軍師・諸葛亮孔明にこう建言する者がいた。「孔明殿は入蜀して以来、非常に厳粛な為政で以って民と対峙しておられるが、漢の高祖を見習い、もっと規律を緩やかにして人民の心を掴むことこそ肝要ではないか」と。孔明、これに答えて曰く、「秦の苛政の後であったればこそ、高祖の緩和政策は功を奏したのです。蜀の旧主・劉璋のたるみきった政治の後には、君臣ともに引き締めが必要なのです」と。

 過去の類例をやたらに振りかざすだけでは、故きを温ねたことにはならない。前提となる条件を把握・整理し、そこから導かれるべき限定的な結論を吟味して初めて、新しきを知ることができるのである。とはいえ、このような作業は存外容易なものではない。忍耐強い論理構築能力が要求される。特に、時勢の変遷めまぐるしく、情報流通量の過大な現代においては、結論だけが重視され、その前提や過程がおざなりにされがちである。これは、極めて恐ろしいことと思わねばならない。もし全ての事象に普遍的に通用する結論を短絡的に求めようとすれば、真偽定かでない誰かの言葉を盲目的に信じることしか道が無いのであるから。

 真実は一つではない。これは見方の問題である。見方が変われば、前提が変わる。前提が異なれば、結論も異なる。しかし、それら限定的な結論の積み重ねという根気の要る作業を放棄しさえしなければ、収束して行く先の本当の真実に、近づくことができるはずだ。その忍耐力を培う場所が、「学校」というところだ。

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立花道雪

 戦国時代、北九州に覇を唱えた大友宗麟の家臣に、戸次鑑連(べっきあきつら)という男がいた。彼は若い頃、大樹を背に居眠りをしていたところ、落雷に見舞われた。とっさに跳ね起き、雷神に刀で切り付けたという。お陰で一命を取りとめた。以後、“雷の化身”と呼ばれるようになる。

 彼は戦場に赴く時、屈強の供回りのものに板を担がせ、その上に座して指揮を執った。戦況が不利になると塩辛声を張り上げて、こう叫ぶ。「命の惜しいものはわしを敵陣にほうり込んで逃げよ」と。こう言われて発憤しない兵士は戸次陣中にはいない。ゆえに、局所的な戦闘において戸次軍の強さは比類が無かった。無論、家臣の命を粗末に扱う男ではない。ある宴席で一人の家臣が粗相をすると、客人に向かってこうとりなす。「この者は宴席の作法には不明でござるが、槍を持たせたら我が家中随一にござる」と。また、臆病者は我が陣に来いという。兵士の優劣は指揮官で決まる。「わしがお主を立派な勇士にしてみせよう」と。

 主君・宗麟は並み外れた好色で有名である。やがて遊興に耽り、大友家の家運も衰退してゆく。鑑連は文句を言わず、黙々と己の任務を遂行する。一度、命を賭して宗麟を諌めたことがある。鑑連も遊興に耽り始めたのである。あの頑固者が遊興に耽るとは見物ぞと宗麟が顔を出す。陽気に騒ぎ宴もたけなわとなった頃、一座の者を引き下がらせ君主に滾々と説教を垂れた。流石に宗麟も一時は控えたらしい。が、改まるべくもない。鑑連の勇名は遠く甲斐の国・武田信玄の耳にも届いていたというから、愚かな主君など見限ってしまえば良いものをと、敵ばかりでなく味方さえ思った。現に、豊臣秀吉は猛烈に家臣に欲しがった。勿論、応ずるはずがない。

 のちに戸次鑑連は、大友氏の分家である立花姓を継ぎ、道雪と号す。汚れのない真っ白な雪の積もる道に足跡を残してゆきたいという願いからである。しかしながら、鑑連は自分の足跡を残すことが出来ないのである。何故なら、落雷に打たれた折に、下半身付随となってしまっていたのだから、、、。鑑連にとって、その足跡が己のものであろうがなかろうが、大したことではなかったのだろう。

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曜変天目茶碗

 茶器の鑑定にかけては、織田信長は非常なる目利きだったらしい。それだけにその蒐集欲には際限がなく、降伏の持参品として、あるいはまた家臣への恩賞として、茶器の付加価値は否が応にも高まった。信長に手渡すことを嫌った松永久秀は、降伏を良しとせず茶釜・平蜘蛛と共に爆死。家臣としては身に余る栄誉であるはずの関東管領職就任にも拘わらず、茶器を与えられなかったことに滝川一益は肩を落とした。

 茶碗、茶壷、花生、香炉など、珍重された茶器は数多かったが、今日まで伝えられているのはごく僅かである。こうした中、現在、国宝に指定されている茶碗は8点。そのうち3点が曜変天目茶碗と呼ばれるものである。漆黒の釉薬の上に、まるで水面に出来た油滴のような小さな斑紋が散りばめられ、その周囲から瑠璃色の輝きを放射する。中国で製造され我が国に輸入されたものであるが、その確かな製法は存在せず、現存するのは世界中でこの3点のみである。

 ところで、そもそも天目茶碗というのは、最初から芸術品として焼かれたものではない。日常の飲食に供された雑器であるという。原産地である中国の建窯には、このことを物語る膨大な量の陶片が窯跡に残されている。また、官用青磁のような精製品でないことは、その粗野な相好からも見て取れる。そうした大量生産品であるからこそ、計算できない焼成過程の偶然の産物として、あの鮮やかで不可思議な紋様が生まれ出でたのだとも言える。そう考えると、我が国で曜変天目が珍重されたわけは、その視覚的な美しさだけでなく、まさに一期一会を体現した出生の因縁にもありそうである。

 曜変天目は我々に語りかけてくれる。自分は特別の存在ではないなどと、なんら嘆く必要はないことを。今この瞬間にも、何千、何万という命が生まれ、そして終わってゆく。自分はその中の、たった一人に過ぎないのかもしれない。でも、たった一つの奇跡なのかもしれない。茶碗と違って、一目見ただけでは分からない。それを見極めるには、一生という時間でも足りないかもしれない。

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達人二人

 越王・勾践に天下の覇権を握らしめたのは、誰あろう范蠡その人である。「臥薪」によって復讐を遂げた呉王・夫差に、「嘗胆」によって逆襲し得たのも彼の功である。しかし、勾践が2度目の覇権を握って間もなく、范蠡は官を辞し、名を変え、隠遁する。ただし、彼の隠棲生活は一風変わっていた。商人として巨万の富を築き、惜しげも無く民衆に散財する。そしてまた富を築き直す。これを繰り返した。

 鍋島直茂は知勇兼備の将である。主家・龍造寺が滅亡に瀕した今山合戦では、乾坤一擲の夜襲を献策・指揮して勝利を呼び込んだ。隆信亡き後は、「私」を滅してよく主家を補佐したが、上下(秀吉や龍造寺家臣)の信頼を集め、やがて自然発生的に主家に取って代わった。旧主家を慮って早々に隠居するが、関ヶ原戦で西軍につくという息子の失策を、周到な事後工作によって回復する。大領を安堵された肥前・鍋島藩は、後に武士道の神髄「葉隠」を産みつつ、また幕末最強の軍事設備を天下に誇ることになる。

 高島俊男によれば、宋代の好漢・豪傑たちの物語「水滸伝」には、2種類の自由が描かれているという。1つは、自分達の権利を主張し、「勝ち取る」自由であり、もう一つは、栄誉富貴を放棄し、世の中の些事から「脱却する」自由である。前者は、精神的にも物質的にも豊かたり得るが、その繁栄を維持するのは容易ではない。かといって、後者のように物質的豊かさの享受を完全に放棄するというのは凡庸な現代人にとってなかなかできることではない。

 范蠡と直茂は、卓抜した知謀によって先を予見し、現世とは一定の距離を置きつつも必ず成功を収めている。片足で老荘の境地に立ち、片手で現世の利益を掴みとる。観念として達しただけでなく、二つの自由の両立を現実の社会の中でまさに実践し、到達した者達である。尊崇と羨望の念を禁じることができない。

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鬼謀の人

 村田蔵六という人がいる。幕末、長州藩の生まれで、緒方洪庵の適塾に学び塾長にまでなるが、老父の跡を継ぐため村に戻り開業医となる。彼の多彩な才能はしかしそこで埋もれることなく、宇和島藩に乞われて砲台設計・蒸気船建造に携わったほか、加賀藩からも扶持を受け洋書翻訳などを請け負った。また、幕命により蕃書調所・講武所・軍艦操練所の三機関で教授方を兼務する一方、種痘所(のちの西洋医学所)の依頼で解剖執刀医をこなしてもいる。

 討幕に燃える長州藩は、自藩出身の天才の存在を迂闊にも長い間知らなかった。というよりも、身分制度に関しては幕府よりもむしろ旧態依然としていた長州藩は、知ろうとしなかったといった方が正確かもしれない。しかし、のちに桂小五郎らはこの頭脳流出の深刻さに気づき、蔵六を呼び戻し、登用している。以後の長州藩の躍進は、この一事によるところが大きい。

 大の歴史好きであったにもかかわらず私が高校で理科系のコースに進んだのは、今思えば、司馬遼太郎が「花神」(新潮社)に描いたこの村田蔵六の影響であったかもしれない。維新回天の偉業が、長州藩を急先鋒とするイデオロギスト達によって牽引されたことは紛れもない事実であるが、その思想的なエネルギーを実質的な力に変換したのは、蔵六の有していた近代西洋の知識・技術そしてなによりその根底にひそむ科学的合理的思考であった、と思えたからである。

IT(情報技術)の普及により、官主導のトップダウン方式から市民主体のネットワーク方式へと社会の在り方が変容しつつある今日の状況は、いってみれば脱藩浪人達がネットワークづくりに東奔西走していた幕末のころの状況とよく似ている。としてみれば、流行りものや新しいものに飛びつくエネルギーも大切であるかもしれない。ただ、それだけでは駄目なんじゃないか、ということだ。

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関ヶ原

 野戦、特に大会戦の勝敗というものは、大将の経験の多寡に大きく依存する。武田信玄と上杉謙信の二人は川中島における5回の直接対決により互いを鍛え上げ、他の追随を許さぬ領域に到達するに至ったと言えるし、その信玄に三方ヶ原で果敢に挑みかかることによって貴重な敗戦を経験した徳川家康は、小牧・長久手で秀吉を退け当代随一の野戦指揮官の名声をゆるぎないものとした。

 これに対し、石田三成の実戦経験の不足は覆うべくもないし、勿論彼自身に特別な才能があったわけでもなかったが、盟友である直江兼続・大谷吉継、あるいは島左近を筆頭とする家臣団の合力は、その弱点を補って余りあるものであった。彼らのお陰で三成は、ともかくも家康と互角の戦いを演じることが可能となったわけであるが、ここで興味深いのは、三成と彼らの関係は、その時代には珍しく友情・信義の絆によって固く結ばれていたということである。理想を追い求め、友情を重んじる。世が世であれば、フランス革命や独立戦争の指導者とさえなり得る資質であったかもしれない。

 ただ、残念なことに、三成の性格は潔癖に過ぎ、寛容の心が欠けていた。関ケ原の運命を分ける重大な伏線として、秀吉家臣団における武断派と吏僚派の反目があったことはよく知られているが、その原因は、三成が彼ら武断派の価値観を認めようとせず、徹底的に排斥しようとしたからにほかならない。理解し合うことは大切なことだが、それができなかった場合に、相手の存在をばっさりと否定してしまうようではいけない。たとえ理解しあえずとも、共に行く道はあるのだから。

 “異質なるものへの寛容”。たしか北陸の、とある高校の校訓であったと記憶している。

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儒の教え

 南宋の人・朱子は自己と客体の分離、すなわち二元論を唱え、先ず宇宙万物の摂理を明らかにした上で自らが正しく生きる道を思索しなければならないと考えた。そして、その理を明らかにするに四書五経などの古典を以ってし、朱子学という哲学大系を儒教の中にうちたてるに至った。ところが、同じ時代に生を受けた陸象山はこのような思想に対して猛烈な反駁を加えた。そもそも宇宙とは自己が存在してはじめて認識し得るものであり、万物究理の純粋客観的論議などは空疎である。己の心の修練とその結果生ずる行動のみが重要である、と。

 朱・陸の論争、すなわち「知」と「行」のいずれを重んじるべきかという点については、彼らの在世中に決着を見ることがなかったが、その後の社会的評価も時代の変遷とともに移り変わった。特に、乱世の終息後には秩序回復のために朱子学が尊ばれ、治世に対する倦みが生ずるとともに閉塞感を打破すべく象山の論が復活したようである。明末の王陽明、幕末の河合継之助などは、象山の思想を鮮やかに蘇らせた好例と言えるだろう。

 さて、視線を現代に転じてみると、世はまさに治世の倦怠期に突入したことが分かる。専門の蛸壺に閉じこもり、重箱の隅をつつくような議論に汲々としてきた学者達は批判にさらされ、社会にとって即効性の高い研究が優遇されるようになった。二つの世界大戦後、「知」の復興と蓄積に最大の力点が置かれた時代から、「行」が要求される時代へと、明らかに世界はシフトしつつある。

 このような社会の変貌と思想の変遷は、じつは孔子の想定のうちにある。『論語』先進篇や為政篇で繰り返し説かれているように、「学」も「思」も、「知」も「行」も、全てはバランスが命。そして、それらを両立せしめるのが、中庸を志向する「礼」と、組み合わせの妙を尊ぶ「楽」なのである。近代科学技術という筋斗雲を得てなお我々は、未だ孔子の掌中にある。

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アルカディア

 自然の風景を模写した日本庭園は数多い。源融の「河原院」しかり、熊本成趣園しかりである。しかし、庭園を模写して自然を作り替えようとした人間は、果たしてどれほどいただろうか。我が国の歴史には少なくとも一人いる。平清盛。日本史上最も派手に権力を握った男である。

 世界遺産として我が国が誇る厳島は、彼が自分の愛好する都(京都)の庭園を「逆見立て」して整備させたものだという。一門の大納言時忠が「平家にあらずんば人にあらず」と傲語した時、清盛は造物主の壮大さをもって瀬戸内海を我が庭の池として愛でたのである。しかし、たとえ清盛という一個人の好みで作られたものだとしても、厳島の価値はいささかも色褪せることはない。そのような作意があってこその厳島だとも言えるし、それを超えた何かがあるのだとも言える。

 島なみ海道が開通する直前、フェリーで島々を渡り歩いた。手を伸ばせば届いてしまいそうな距離に島が点々と浮かび、それらを真新しい橋が一つ、また一つと繋いでいる。まさに人工造形物そのものなのだが、不思議といやな感じはしなかった。瀬戸内海という周りの風景全体が既に人の手による改変を受けている。しかし、もはやそれは歴史の中で消化され、同化されてしまった。今はもうただ潮の香りと人の匂いが交じり合うだけ。

 あるいは、内海イコール羊水という深層心理からくる子宮回帰願望なのか。尾道、三原、竹原、安芸津。瀬戸内の町はどこも魅力的だ。彼の地を離れて、はや一年。確かに忘じ難く候。

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鮎師

 和歌山県北部を中央構造線沿いに西流する紀ノ川は、鮎の川として有名である。御三家の一つ、紀州徳川家の殿様は、この川にお抱えの鮎漁師を置いたという。代々世襲されるその名は茜屋新兵衛。現代に伝わる漁法は茜屋流と呼ばれる。

 その茜屋流に「鬼手仏心」という言葉が伝えられている(矢口高雄「釣りキチ三平」46〜48巻)。鮎を捕らえるときには鬼の如き正確さをもって仕留める。そのための技の修練も鬼の如くに行う。しかし、魚族保護の観点から、乱獲はしないし、惨たらしい捕り方もしない。なぜなら、鮎が紀ノ川から消えるとき、それは茜屋流の消滅も意味するからである。

 この言葉は、開発と環境を考える上で重要な示唆を与えてくれるが、最近、教育にも同じことが言えるのではないかと気がついた。生徒の潜在能力を開花させるには、やや高めの負荷を与えながら、まさに鬼の如き厳しさをもって対することが必要なときがある。しかし、生徒の成長は、人によって、またタイミングによっても千差万別なので、必ずしも期待通りの答えが返ってくるとは限らない。そんな時、仏の心をもって見守る姿勢が必要だ。その仏心が、将来の雄飛を生み出すことがあるから・・・。

 とかなんとか言いつつ、忘れてならないことが一つ。それは、教育者が主役になってはいけない、ということ。あくまでも主役は生徒。自己満足に陥るべからず。

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治水の要

 聖帝堯舜の後継者と認められた禹の最大の功績は、なんといっても黄河の治水である。彼は、その父・鯀のイン(ふさぐこと)と障(さえぎること)による失敗を省み、疏(とおすこと)と導(みちびくこと)を基調とする治水で成功を収めた。すなわち、氾濫危険箇所に堤防を築くのではなく、流すべきところを流し、水の好むところに従わせることにより、氾濫を未然に防いだのである。

 このような発想の転換は、直接的には霞堤など後世の治水技術に受け継がれているし、間接的には処世術に広く応用されてもいる。論点を敢えてぼかして衝突をさけたり、落としどころを予め設定して根回しをしたり。特に最近では、波風立てずに問題をうまく収拾する能力がとかく尊重されることもあり、自然とそのような思考回路を持つ人が増えてきているように思う。しかし、治水の極意を見誤り、本末転倒の結果が生み出される危険性には注意しなければならない。

 水の流れは地勢によって定まる。そのゆえ禹は、中国全土を歩き回り、広範囲の地勢をつぶさに調べ上げたうえで治水計画を練ったのである。もし地勢の理解なく水を流そうとしたならば、氾濫は治まるどころかより壊滅的な被害をもたらしたかもしれない。また実際、水を適所に流すために必要とあらば、禹は父同様に堤防を築いてもいる。

 要は、広い視野と豊富な知識、そしてそれらに基づく洞察力こそが肝なのであり、それらなしに衝突をさけているだけでは無益どころか害悪にさえ成り得る。高い見識と、波風を恐れぬ勇気を。

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萌葱と浅葱

 日本の伝統色には実に情緒豊かな名前が与えられている。東雲色、露草色、夏虫色に朽葉色。これらの色名はまた、様々なエピソードに包まれている(中江克己『色の名前で読み解く日本史』)。例えば、葱の萌え出る頃を形容した萌葱色。平敦盛が身につけた「萌葱匂いの鎧」とは、縅糸が淡い若草色のグラデーションになっていたという。まさに匂いたつ若武者振りが目に浮かぶ。一方、浅葱色。青く熟した葱の葉色を淡くしたような色だが、こちらにはやや不名誉なエピソードが。

 布地は染料によって、色だけでなく性質も変化する。浅葱色で染めた木綿は丈夫で実用的だったために、庶民や下級武士が着物の裏地として愛用した。しかし、流行が移り変わり、江戸の町民が紺木綿に乗り換えてもなお、地方出身の侍は羽織裏に浅葱木綿を使い続けたことから、江戸詰めの田舎侍を「浅葱裏」と呼んで侮蔑したという。あるいはまた吉原遊郭などでは、こうした田舎侍が概して野暮天で厚顔無恥であったため、「浅葱裏」はそうした男の代名詞として嘲りの念をもって使われたという。

 氏より育ちとはよく言ったもので、個人の人格・価値観は育てられた環境に依存する。情報伝達網が発達していなかった時代、地方で生まれ育った者にとって、初回・裏・馴染といった吉原の作法や「太夫の張り」といった価値観は、容易には理解しかねるものであったろう。粋だとか通だとか、そうした感覚で自己を装うには、個人の資質や努力では如何ともし難い部分があったはずである。とすれば、「浅葱裏」とはもはや宿命であり、それは乗り越えるというよりも受け入れるべきものであるのかもしれない。

 情報伝達手段が発達し、グローバル化が進行する今日においても、生れ落ちた国・地域によるハンディキャップは埋まらない。それどころか、寧ろその格差は拡大しつつある。しかし、「浅葱裏」であることを恥と思わず、いつか「萌葱匂いの鎧」を身に纏ってやろうという気概だけは失いたくないものである。北関東の県立男子校出身者として。

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