「桐峰」(筑波大学大学院教育研究科社会科教育コース 修了記念誌)
 Vol. 26 2006年3月24日

修論のテーマで迷った頃

山 下 清 海


 ついこの前のような気もするが,数えてみると30年ほど前のことになる。大学院に入って1年目の夏休み前,修論のテーマを何にしようか,あれこれ悩んだ。

 卒論は,「タイの民族地理学的研究」というタイトルで,自分の旅行体験と英文文献を中心にまとめただけのオリジナリティのないものであった。大学院に進むために外国語の文献を多く読むためのトレーニング的な意味もあった。

 学部2年生の終わりに東南アジアを一人旅して,その時に将来は東南アジア地域研究者になって,東南アジアの文化地理学的な研究に取り組みたいと思った。しかし,大学院で修論の研究対象に東南アジアを選んでも,なかなかフィールドワークには出かけられないし,経済的にも難しかった。留学したいとは思ったが,修士課程の院生が公費の留学生に選ばれるチャンスはほとんどなかった。

 そこで,将来,東南アジア研究をやるためのステップになるような研究を日本国内でやり,フィールドワーク経験を積んで,博士課程で東南アジアに留学しようという大雑把な計画を立てた。大きな問題は,修論で何をやるかということであった。私が東南アジアに強く惹かれたのは,東南アジアの多民族社会である。一つの地域で,さまざまな民族が多様な言語を話しながら生活していることが,当時の日本社会からみて,非常に新鮮に感じられた。それで,日本の中で,東南アジアと同じような複合社会(plural society)のようなものがあれば,それを修論のテーマにしようと考えた。

 一つ考えたテーマは,せっかく東京教育大学から筑波大学へ移転したので,筑波研究学園都市の中での旧住民と新住民からなる「複合社会」の研究であった。旧住民の購読新聞は圧倒的に読売新聞が多く,大学や研究所などの新住民は,朝日新聞の購読者が多かった。このようなコントラストは明瞭であり,両者の間には,あまり交流はなかった。

 もう一つは,かくれキリシタンの研究である。長崎県の離島では,かくれキリシタンであった人びとの集落は,島の海岸から離れた高台に形成され,農業中心の生活をしていた。一方,仏教徒の集落は漁港付近に形成され,漁業を中心に生計を立てていた。同じ島に住んでいながら,互いにすみわけ,両者間には交流は少なかった。このような図式に,私は非常に研究的興味を引かれ,大学院1年生の夏休みには,長崎県平戸市の生月島に予備調査に出かけたりした。

 最終的に悩んだ末に決めた修論のテーマは,上記の2つのいずれでもなかった。私が修論のテーマを決める際に考えた条件は3つあった。(1)フィールドワーク中心の研究,(2)文化地理学的な研究,(3)将来の東南アジア研究に役立つ研究,であった。

 いろいろ考えた末に,この3つの条件をクリアする研究テーマを見つけた。それが,横浜中華街の研究であった。華人が多い東南アジアでの将来の調査の準備として,大学院1年生のときに,毎週3回,夜,中国語学校に通い始めた。1年半,1度も休まず皆勤であった。横浜の外国人居留地では,華人は低湿地(今の中華街)に,欧米人は高台(山手)に居住するという,「すみわけ」がみられた。修論を書いた後,私は文部省のアジア諸国等派遣留学生に採用され,2年間シンガポールの南洋大学に留学することができた。博士論文の研究テーマの選択でも,大いに悩んだ.常に地図を持って,シンガポールの街中を繰り返し歩いた.その結果,シンガポールの華人方言集団(福建人,広東人など)の「すみわけ」に関する研究をテーマに選び,博士論文としてまとめた。

 修論のテーマ選択に限らず,人生,悩むことこそ勉強である。