呉亜弟との出会い〜マラヤ鉄道にて〜

山 下 清 海


「日中学院 A班C班合同文集」 (1975年10月)

  大学院生の時に日中学院(当時,東京・神田神保町の内山書店の上階にあった)の夜間のクラスで,
中国語を学び始めて3ヵ月頃に書いた文章です。

*  *  *  *  *  *

 2年ほど前の1973年の春に,東南アジアをひとりで歩いた。その旅の途中で,たくさんの現地の人たちと友人になることができた。彼らは,華人,マレー人,インド人,タイ人など,民族は多様であった。その時の体験が,私を東南アジアに,ひいてはアジア全体に惹きつけた。そして,現在,日中学院へ通わせるようになった。その時の体験から・・・・。

 シンガポールから3等列車でマレーシアへ入った時だった。たまたま隣の席に座った少年が読んでいた新聞がふと目にとまった。ぎっしりと漢字が並んでいたが,借りて読んでみると,意外によくわかった。彼は,中国語の新聞を見ている私に興味を抱いた様子だった。少年は英語がわからなかった。その時,私は思い出したように,自分の手帳に漢字を書き始めた。「我日本人,学生・・・・」。すると彼は,しきりにうなずき始めた。今度は,彼がペンをとって,「呉亜弟」という自分の名前を書いた。14歳だという。

 少年は,途中の駅で大きな椰子の葉に包んだご飯を2人分買って,一つを私にくれた。彼に見習って,私も素手で不器用ながら,残さず全部たいらげてしまった。私が手帳に「美味」と書くと,彼は安心したように,少年らしい笑顔で応えた。彼は,決して食事代を受け取ろうとはしなかった。その代わりに,私は100円硬貨を少年にあげた。彼は大事そうにしまっては,何度も取り出し見直していた。

 そのうち,同じ車両にいた人たち(ほとんどが華人)が,漢字のわかる外国人に興味をもったらしく,何やら紙に漢字を書いては見せに来るようになった。彼らと別れる時,私は皆に「ツァイフイ(再会)」と言った。すると,彼らは列車の窓から手を振りながら,大きな声で別れを告げてくれた。「SA YO NA RA」と。