読売新聞(夕刊) 「文化」欄 1992年9月8日および9月9日掲載を加筆修正

 

華人社会から見たベトナム

復興呼ぶドイモイ効果
「解放」で辛酸の華僑街 チョロン

山 下 清 海

 

東南アジア不人気

 毎年4月、新入生を対象に、私は次のようなアンケートを試みることにしている。「次の10ヵ国を、親しみを感じる順に並べなさい」という問いである。今年実施した結果は、@アメリカ、Aオーストラリア、B中国、Cイギリス、D韓国、Eシンガポール、Fロシア(旧ソ連)、Gフィリピン、Hタイ、Iベトナムという順であった。

 大学に入ったばかりの1年生には、私が研究の対象とする東南アジアは、欧米諸国に比べると、あまり人気がないという例年どおりの結果である。なかでも最下位のベトナムは新入生にとっては、アメリカ映画で知ったベトナム戦争のイメージがかろうじてあるのみのようだ。

 私の高校、大学時代には、ベトナム戦争がまっ最中であり、テレビや新聞は、連日、ベトナムを報じていた。このため、サイゴン、ハノイ以外にも、ハイフォン、ダナン、ユエ(フエ)、タイニンなどのベトナムの都市名は、私の記憶にしっかりと残っている。その時、初めて耳にしたのが、旧サイゴンのチャイナタウン、チョロン(ショロン)であった。

 マルグリット・デュラスの小説『愛人/ラマン』(河出書房新社)では、フランス統治時代、1929年ころのチョロンのチャイナタウンが舞台の一つになっている。この作品は映画化され、今年5月、日本でも封切られて評判を呼んだ。富豪の華人(華僑)青年と一五歳のフランス人少女との密会の場所として、チョロンのチャイナタウンのシーンがたびたび出てくる。不気味な雰囲気を漂わせたチャイナタウンの描き方は、ヨーロッパ人の抱くチャイナタウン観をよく反映している。

 この夏休み、私自身のチャイナタウン観を再確認するため、チョロンを訪ねるひとり旅に出かけた。

 チョロン地区は、ホーチミン(旧サイゴン)市の行政の中心であるサイゴン地区から、5kmほど南に位置する。歴史的にみると、このチョロンは、17世紀末に中国南部から移り住んだ明朝の残党とその子孫らが、商業の中心地としてつくりあげた町である。チョロンとは、ベトナム語で大きな市場(チョは市場、ロンは大きい)を意味する。フランス植民地時代、チョロンは米の取引を中心に、インドシナにおける経済の一大中心地として繁栄し、東南アジア有数のチャイナタウンに発展した。

 チョロンの街は、サイゴンに比べ、いくらか雑然とし、騒々しいながらも、華人経営の卸・小売の店舗が建ち並び、人の動きも活発である。しかし、ある廟に参拝に来た50歳の華人男性は、私が日本人だと知ると、「ベトナム華人は、『辛苦』ですよ」と語った。

難民で国外へ脱出

 1975年4月、解放勢力はサイゴンの無血入城を果たし、サイゴン市はその名をホーチミン市に改められた。翌年、南北ベトナムは統一され、旧南ベトナムの社会主義建設が急がれた。私企業の国有化、資産階級の資産制限をはじめ、長年かけて有力な経済的地位を築き上げてきた華人を取り巻く環境は一変してしまった。1978年には、華人の中国への大量引き揚げ事件が発生し、中国・ベトナム両国の関係は険悪になり、翌1979年には中越戦争へと発展した。経済不況と生活困難から、ベトナムを離れて、海外へ脱出する人びとが増加した。いわゆるボートピープルのかなりの部分は華人であった。チョロンのチャイナタウンでも、華人経営の店舗の多くが店を閉め、人びとは危険を冒して国外脱出を図った。

 こうして、繁栄を誇ってきたチョロンのチャイナタウンは、急速にさびれていった。1975年の解放以前、ホーチミン市の人口370万のうち、華人はその30%に当たる110万人を数えた。チョロンだけで70万人の華人が居住していた。1978年当時の新聞は、チョロンの華人人口が、10万人あまりにまで減少したと報じた。

厳しかった華人政策

 解放前には、8種の華字紙(中国語新聞)が発行されていたが、1975年の解放以後は、唯一の華字紙として政府発行の「解放日報」が刊行されているにすぎい。華人の相互扶助組織である会館、華人子弟の教育機関である華語学校は、厳しく取り締まられ、活動を停止した。華人子弟は、華語(標準中国語、いわゆる北京語)を学ぶ機会を奪われた。漢字の看板も規制された。このような状況は、1965年に発生した9・30事件の後に、厳しい対華人政策がとられたインドネシアの状況と非常によく似ている。

 しかし、今日のチョロンでは、漢字の看板が再び目立ち始めた。露店では、輪ゴムでしばったベトナム紙幣の束を片手にもった娘が、日本製のビデオ・デッキからシンガポール製のビールまで、さまざまな外国製品を売っている。ドイモイ(刷新)とよばれる経済の自由化政策の効果が出てきたのである。

 美しい並木をもつ整然としたフランス様式の街、サイゴンは「プチ(小さな)パリ」と呼ばれる。これに対し、チャイナタウンであるチョロンも、「小広州」という別称をもっている。これは、チョロンの華人社会の中で、広東人が最も多く、広東語が共通語の役割を果たしてきたからである。広東人に次いで多いのは、広東省東部のスワトウ(汕頭)を中心とする地域の出身者、潮州人である。この二大方言集団のほか、福建人、海南人、客家(ハッカ)人などさまざまな方言集団によって、チョロンのチャイナタウンは形成されてきた。

経済力示す豪華な廟

 チャイナタウンとしてのチョロンのシンボル的存在は、多数の由緒ある廟である。豪華な造りで、規模も大きく、立派なものが多い。これは、ベトナム華人が、これまでいかに大きな経済力をもってきたかをよく示している。多くの廟は同郷会館を兼ねており、代表的な同郷会館だけでも、穂城会館(広東人)、義安会館(潮州人)、瓊府会館(海南人)、福建会館(福建人)、崇正会館(客家人)などがある。

 媽祖(天上聖母)をまつる穂城会館の天后廟は、19世紀初めに広東人が建てたもので、観光的要素に乏しいチョロン地区の貴重な観光名所の一つになっている。チョロンの多くの廟の中で最大規模のものは、潮州人が建立した義安会館の廟である。ここには、いろいろな神々がまつられているが、正面中央には関聖帝君すなわち関羽がまつられている。私がここを訪れた7月23日(旧暦6月24日)は、関羽の生誕日であった。大きな螺旋状の線香が天井から多数吊り下げられた廟内は、線香の煙と大勢の参拝者でごった返していた。年輩者だけでなく、若い青年や娘の姿も多く見られた。廟前の広場には、参拝者に施しを求めて、多くの物乞いも集まってきていた。

国外脱出組も帰国

 1986年から実施されたドイモイ政策により、経済の改革・開放が進む中で、個人営業の店も認められるようになり、いったん国外へ脱出したベトナム人の帰国も許されるようになってきた。唯一の華字紙「解放日報」のある編集人によれば、ボートピープルとして外国に渡った華人で、再びチョロンに戻ってくる者が増え、チョロンの華人人口は50万人くらいまで回復し、街中の漢字の看板も、従来に比べれば、ずいぶん増えてきたという。

 7,000万近い人口をもつ大国ベトナムは、東南アジアに残された有力な投資先として、最近、世界的に注目されるようになってきた。今日、ベトナムに対する投資額をみると、台湾が最も多く、これに香港、フランスが続く。昨年あたりから、マレーシアやシンガポールとの貿易も盛んになり、両国(特に華人系企業が多い)のベトナムへの投資が急増している。チョロンやサイゴンのホテル・レストラン、そして空港でも、華語(標準中国語)を話しているビジネスマンの姿がよく見られる。市内各所の街頭の露店では、『越南(ベトナム)外国投資法』という名の中国語の本が売られている。私を外国から来た華人と勘違いしたのだろうか、売り子は中国語表記の市街地図をさかんにすすめた。

 いま、ベトナムは華語学習ブームである。台湾、シンガポール、マレーシアの投資が増えるにつれ、彼らのあいだで共通語的役割を果たす華語の重要性が高まりつつある。華語ができると就職にも有利になるため、ベトナム人の中にも、華語を学んでいる者が少なくないという。最近、チョロンの各所に華語普及センターが設けられ、現在、数万の人びとが華語を学んでいると、ホーチミン市華文教育補助会の主任は話してくれた。ベトナムでは、最近、外国人観光客の訪問が増えてきたが、なかでも目立つのが、台湾からの旅行団である。彼らは多人数でやってきて、チップを多くはずむから、華語通訳・ガイドは副収入が多いとの評判である。これも華語学習ブームの一因となっているようだ。

 ベトナムは、いま雨季である。チョロンを離れる日も、前夜から降りだした雨は、正午近くになても止む気配がなかった。私は、大きなトランクを一つもって、雨の中、シクロ(輪タク)に乗り込んだ。街中には物乞いが多いが、雨に濡れたままの物乞いはいっそう哀れである。シクロ運転手が、バイクと自転車の洪水のような道路を、巧みに走り抜けているあいだに、いつのまにか漢字の看板が見られなくなっていた。チョロンからわずか20分ほどで、サイゴンの街に戻った。

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