読売新聞(夕刊) 文化欄 1988年5月13日

 

 「華人研究」の国際交流を

現地社会に定着化進む
高まる日本への期待

山下清海(秋田大学教授)

 

  「中国人の海外移住の歴史は、相当古くまでさかのぼることができるが、大量移住が始まったのは、アヘン戦争(1840〜1842年)以後である。彼らは東南アジアの植民地やアメリカなど新大陸において農園や鉱山の労働者として、また商人として勤勉に働き、移住先で血縁、地縁的結びつきが強固な社会を形成した。

 このような中国人移住者とその子孫は、一般に華僑とよばれ、今日、その人口は2,000万人以上にのぼるといわれる。最近では、華僑の現地社会への定着化がしだいにすすみ、厳密な意味での華僑(中国籍を保有している者)は少数になった。このため、華僑(僑=仮住まいの意)に代わって、「華人」という呼び方がなされるようになってきた。

出身地の状況を調査

 世界の華人の8割以上は、東南アジアに集中している。私はこの10年余り、シンガポールを中心に東南アジア各地の華人について、地理学的立場から調査、研究をすすめてきた。特に強い関心を抱いてきたのは、各地のチャイナタウンがどのように形成され、変容してきたのか、また、そこでの華人の生活様式や景観には、いかなる地域的特色がみられるのか、ということであった。

 このような課題を追っていくと、必然的に中国本土の華人の出身地の状況を把握しておく必要性に迫られる。 そこで、さきごろ華人の主要な出身地である中国南部の広東、福建両省を訪ねて予備調査を行い、華人研究者と交流した。

 今回私が訪れた地域は、広東省の省都広州、潮州地方の中心都市汕頭(スワトウ)、客家(ハッカ)と呼ばれる集団の最大の集中地梅県、福建省南部の港湾都市厦門(アモイ)、唐・宋代に商業港として栄えた泉州、そして福建省の省都福州などである。これらの地域は、いずれも「僑郷」(華僑のふるさと)としてよく知られているところであり、旧市街地の町並みは、東南アジアのチャイナタウンの景観そのものであった。

地域的に「すみわけ」

 東南アジアの華人社会では、広東語(広州・香港一帯)、福建語(厦門・泉州近辺)、潮州語(汕頭一帯)、客家語、福州語、海南語など、様々な方言と中国の標準語(北京語が基本になっている)が用いられている。これらの方言は、標準語とは発音が大きく異なり、また各方言間の差異もきわめて大きい。例えば、汕頭は広東省の東部に位置するが、潮州語と広東語は、互いに通じない。また、福建省の省都福州と泉州は、約200kmしか離れていないが、泉州の人たちは、福州語を聞いても理解できない。方言というよりは、外国と言った方が実態に近い。

 広東省の省都であり、広東人の中心地である広州の市内を走るバスの中では、アナウンスは標準語(普通話という)と広東語の両方が用いられている。テレビも、両方の言語で放送されている。香港に隣接し、経済特区として急速な発展を遂げている深せんでは、市民は香港の広東語放送を好んで視聴している。もちろんニュース番組の中には、中国の政治、社会の内部事情に関連するものも多い。私は、図らずも香港のテレビが放送する紅白歌合戦を見ながら、深せんで1988年の新年を迎えた。

 汕頭のバスターミナルで、客家の故郷である梅県(汕頭から約190km)に行くバスを待っていた時、改札案内のアナウンスは潮州語のみであった。隣に座っていた青年に、標準語で話しかけた。すると、江蘇省の南京から来たという彼も、「アナウンスで何を言っているのか全くわからないので、案内板の漢字だけを見ているんだ」という。

 このように、僑郷における方言の差異が極めて大きいため、東南アジアの華人社会では、各方言集団(福建人、広東人など)が地域的に「すみわけ」を行ってきた。シンガポールでは、福建人街、潮州人街、広東人街、海南人街が明瞭に形成されていたが、最近の大規模な都市再開発の進行に伴い、華人方言集団のすみわけは、崩壊しつつある。

海外華人の僑郷への貢献

 広東省や福建省の僑郷で、私はたびたび里帰りの華人と間違えられ、「あなたの郷里はどこですか。」と尋ねられた。僑郷では、たいていの家に、家族や親類が海外に幾人かいる。ごく一般的な例を示そう。泉州に住む教師(51歳、男)の場合、シンガポールに妻の両親と妹が、マレーシアに従兄が、そしてフィリピンには兄嫁が住んでいる。さらに香港に甥と妻の弟、台湾に従兄がいる。昨年11月から台湾人の中国大陸への親族訪問が解禁されたが、この台湾の従兄は、すでにそれ以前、香港を経由して2、3日間、非公式に里帰りしたことがあるそうだ。

 ほとんどの華人は、いずれ海外で成功して、故郷に錦を飾ることを夢見て、故郷を後にした。しかし、実際にその夢を実現させた者は、ほんのわずかにすぎない。海外での生活に恵まれない者は、しだいに故郷との音信がとぎれがちになるようだ。里帰りの際には、家族・親類へ多数のお土産(例えばテレビ、ラジカセ、衣類など)、多額の現金(香港ドルが好まれる)を携えるのが一般の習わしである。

 一般に華人の中には、貧困のため十分な教育を受けられなかった者が多く、郷里の教育、文化、社会福祉の発展に貢献したいという愛郷心が特に強い。このため、華人のふるさとでは、海外の華人が資金を援助して建設した学校(厦門大学もその一例)、病院、道路、橋、廟(廟の多くは、文化大革命期にひどく破壊され、今でも各所で修復工事が行われている)などが数多くみられる。

 福建省泉州の培元中学には、「菲律賓楼」と名付けられた校舎がある。泉州付近からは、フィリピンに渡った華僑が多いが、この校舎は、彼らの寄付によって建設されたものである。また、泉州の第二病院内にある「愛国楼」と名付けられた建物の1階には、「華僑 祭瓊霞 捐建 1971年11月」と書かれたプレートが掲げられている。市内を走る救急車の側面には、それを寄付した華僑の氏名が書かれてあるものもみられる。さらに、僑郷では、海外の華人からの送金を受ける家族や帰国した華人が建てた立派な住宅が立ち並ぶ「華僑新村」が、各所に設けられている。

開放政策で活発化

 ところで、最近、中国では文化大革命期に一時停止していた華人研究が、再び盛んになってきた。これは、対外開放政策の推進に伴い、海外の華人の投資が歓迎され、華人の役割が重視されるようになってきたことを反映したものであろう。

 私は、厦門大学南洋研究所や広州の曁南大学華僑研究所などを訪問したが、華人研究に従事している研究者の中には、インドネシアやベトナムなど東南アジアからの帰国華人が少なくなかった。中国の華人研究の成果をみると、第二次大戦前の華人の社会、政治、教育、祖国への貢献など、現状では、どちらかというと歴史的側面に重点が置かれているように思えた。これは、日本の研究者のように世界各地で現地調査を行ったり、各種の雑誌・新聞や多くの新旧の文献を入手することが容易でないという研究環境が影響しているのかもしれない。

 一方、東南アジアに目を向けると、政治的、民族的な問題に発展しがちな華人問題を研究テーマに選ぶ現地研究者はきわめて少ない。このような状況にあるため、日本における華人研究の発展に対する東南アジア及び中国の研究者の期待は非常に大きい。華人研究をめぐって、中国、東南アジア及び日本の三者間の学術的交流が深まることが望まれている。

文化欄へ     HOMEへ