「シティ・ノイズ」(ネバー ランド)、2号, pp.46-49 1989年5月28日

 

赤道直下の都市国家
シンガポール 

山下清海(秋田大学助教授)

 

 シンガポールは、赤道直下に位置する都市国家である。面積わずか約620平方キロの島国で、人口260万あまり。華人・マレー人・インド人からなる多民族社会を形成。最近、経済発展が著しく、アジアNIESの一つに数えらえている。都心部は近代的な都市景観を呈し、観光都市としての人気も高い。

日本人に人気の高い観光都市

 東南アジアの中で、日本人の若い女性観光客が多く目立つのは、シンガポールくらいだろう。経済発展が遅れている、治安が悪い、不衛生であるなど、東南アジアに対するイメージが、必ずしもよくないわが国において、シンガポールは、例外的にかなり好感をもってみられている----赤道直下の都市国家、清潔で美しい町並(ガーデン・シティ)、ショッピング天国、経済発展(アジアNIES)。シンガポールは、クリーン・アンド・グリーンを売り物にする観光都市でもある。ゴールデン・ウイークや正月ともなれば、シンガポールの銀座といわれるオーチャード・ロード(Orchard Road)には、日本人観光客の姿がやたら目につくようになる。

 シンガポールという名称は、サンスクリット語で獅子の町を意味するシンガプラに由来する。このため、シンガポールはライオン・シティともよばれ、シンガポール川の河口には、シンガポール観光のシンボルである白色のマーライオンの噴水が設置されている。ここでは、記念写真を撮っている日本人観光客を、いつもみかけることができる。

「熱帯夜」のない赤道直下の都市国家

 シンガポールは、マレー半島の南端に位置するシンガポール島とその周辺の50あまりの小島からなる。シンガポール島は、東西42キロ、南北23キロの菱形をした島である。シンガポールの総面積は、622平方キロにすぎない。これは、淡路島や東京23区の面積とほぼ同じであるが、このわずかな国土で一つの国家、シンガポール共和国(Republic of Singapore)を結成している。

 シンガポールはほぼ赤道直下にあり、赤道の北137キロに位置する。その気候は、一年中、高温多湿であり、典型的な熱帯雨林気候の特色を示す。このため、高校の地理の問題に、シンガポールの気候グラフがよく出題される。

 最暖月(5月)の平均気温は27.3度、最寒月(1月、12月)のそれは25.6度であり、その差は極めて小さい。年間の平均気温26.6度という、まさに常夏の島である。

 しかし、ここで強調しておきたいのは、日本の蒸し暑い夏と比べると、シンガポールはそれほど暑いところではない、ということである。平均最高気温は30.7度どまりであり、平均最低気温は23.8度まで下がる。したがって、夜はたいへんしのぎやすく、涼みがてらの日暮れの散歩は最高である。日本の真夏に悩まされる、最低気温25度を超える「熱帯夜」は、熱帯の地シンガポールでは、めったにない。ちなみに、シンガポールにおける観測史上の最高気温は、35.8度にすぎないのである。

 ほぼ赤道直下にあるシンガポールでは、雨季・乾季があまり明瞭ではない。しかし、一年を通して、土砂降りのスコールがよく降り、年間降水量は2369ミリに達する(東京の年間降水量は1460ミリ)。ただ、スコールは短時間に上がるし、雨足が強烈なので、雨傘を用いるシンガポール人はほとんどなく、たいていは雨宿りですます。スコールの中、傘をさして、ずぶ濡れになりながら歩いているのは、たいてい我が同胞である。

さまざまな民族からなるエキゾチックな都市

 シンガポールの人口は261万(1987年)。これは、大阪市(255万、1987年3月末)とほぼ同じである。まさに、都市国家である。

 シンガポールの総人口のほぼ4分の3(76.1%)を、「華人」が占める。華人とは、従来「華僑」とよばれてきた中国系の住民である。「僑」は仮住まいを意味するが、シンガポールの中国系住民は、すでにシンガポール人(Singaporean)として定着している。このため、華僑に代わって、華人という呼び方が一般的に用いられるようになった。そのほか、マレー人が15.1%、インド人が6.5%、その他が2.3%となっている(1987年)。このように、シンガポールでは、典型的な多民族社会が形成されている。

 それぞれの民族集団は、共通語としての英語のほか、中国語・マレー語・タミル語(インド南部の言語)などを話す。ただし、シンガポールの国語は、マレー語になっている。これは、シンガポールが一時期(1963〜1965)、隣国マレーシアとともにマレーシア連邦を結成したときの名残にすぎない。シンガポールの国民の多くは、「国語」ができない。今日、実質的な国語の役割を果しているのは英語である。学校でも、授業は英語で行われている。シンガポールでは、英語がうまくないと進学できないし、よい就職先を見付けにくい。

シンガポール華人社会、普及している中国語

 前述したように、国民の4分の3は華人であるが、彼らは、1819年にシンガポールがイギリスの植民地になって以後、福建省・広東省・海南省(海南島)を中心とする中国南部から移住してきた者、およびその子孫である。したがって、ひとくちに中国語といっても、福建語(福建省南部の方言)・潮州語(広東省東部の方言)・広東語(広東省広州・香港付近の方言)をはじめ、さまざまな中国の方言が用いられてきた。標準中国語、いわゆる北京語(シンガポールでは、「華語」あるいはMandarinとよばれる)も、シンガポールではかなり普及している。

 日本で中国語を学んだ人にとっては、中国語の利用価値は極めて大きい。シンガポールの華人は、初体面の外国人に対しては英語を用いるが、こちらが中国語を解するとわかると、まるで別人であるかのように、より親近感をもって接してくれることがよくある。

 日本のどこでも、すべて日本語で事足りるわれわれ日本人には、多民族社会あるいは多言語社会というものを、なかなか実感として理解できにくい。シンガポールのテレビやラジオは、英語・華語・マレー語・タミル語の四つの公用語で放送している。

 映画になると、やや複雑である。最も人気のあるアメリカ映画の場合、観客は華人・マレー人・インド人、あるいはシンガポールに在留している欧米人・日本人など、民族的にさまざまである。せりふは英語であるが、中国語とマレー語の字幕がつき、スクリーンの下部は、漢字とアルファベットが並ぶ。香港や台湾映画の場合でも、中国語や英語の字幕がつく。これは、せりふの標準中国語(香港映画は本来、広東語であるが、標準中国語へ吹き替えられる)を聞いてわからない年輩の華人や、英語しか理解できない華人、その他の民族を配慮したものである。

植民都市(コロニアルシティ)の建設

 シンガポールの中心部に、ラッフルズ・ホテルという名の由緒あるホテルがある。この木造3階建のコロニアル・スタイルのホテルは、1987年に開業100周年を迎えた。『月と六ペンス』『雨』『赤毛』などで知られるイギリスの小説家、劇作家サマセット・モーム(1874〜1965)は、1920年代、このホテルに投宿して、数々の名作を書き上げた。

 このホテルの名前に用いられているスタンフォード・ラッフルズ(1781〜1826)は、イギリスの植民地行政官であった。東南アジアをめぐる列国の植民地争奪の競争の中で、ラッフルズは確固たる植民地の基地を求めて、1819年、シンガポール川の河口に上陸した。その当時、シンガポール島には、120人のマレー人と30人の中国人しか住んでいなかったといわれる。

 ラッフルズは、貿易品に関税をかけない自由貿易港を開き、そこに全く新しいイギリス植民都市を建設した。その結果、東南アジアの交通の要衝に位置するシンガポールは、周辺地域や中国、インドなどから、たちまち多数の商人や労働者を引き付け、国際的な貿易都市に発展していった。

著しい経済発展 東南アジアの優等生

 シンガポールは、1963年、隣国マレーシアとともにマレーシア連邦を結成し、イギリスの植民地から独立した。しかし、わずか2年後の1965年には、華人とマレー人の間の民族問題などから、同連邦から分離して、シンガポール共和国となった。

 その後、リー・クアンユー(李光耀)首相率いる人民行動党(PAP)体制の下で、日本をはじめ外国企業を多数誘致することにより、急速な工業化を達成し、韓国・台湾・香港と並んでアジアNIES(新興工業経済地域)の一つに数えられるまでの経済発展を成し遂げた。今日では、従来の労働集約型工業から、電気・電子・コンピュータなどの技術集約型工業への転換が進められている。さらに、シンガポールは、東南アジアの国際金融センターとしての地位を確立している。

 初めてシンガポールを訪れる日本人は、おそらく、それまで抱いていた東南アジアのマイナス・イメージを修正することを余儀なくされるであろう。

伝統的なチャイナタウンと超近代的な都市景観

 シンガポールの中心部は、1960年代以前は、ほとんどすべてがチャイナタウンであった。老朽化した長屋形式の店舗兼用住宅(ショップハウスと呼ばれる)こそ、チャイナタウンのシンボルである。1階は店舗に、2、3階は居住部分になっている。このような様式の建物は、東南アジア華人の故郷である中国南部の福建省や広東省などの都市部においてみられる。

 今日、伝統的なチャイナタウンの多くは、大規模な都市再開発によって消失しつつある。ショップハウスに代わって、20階以上もある高層の公営アパートが林立するようになってきた。郊外においても、人口20万から30万を擁するニュータウンが各所に建設された。その結果、シンガポールの総人口の85%もの人達が、HDBフラットと呼ばれる公営アパートに入居するまでになった(1987年3月)。

 住宅事情に関しては、シンガポールの方が、日本よりはるかに恵まれている。アパートを思い切って高層化することにより、団地の周りには、十分な緑地やスーパーマーケット、フードセンター、映画館、公共施設用地が確保されている。

 シンガポールの交通機関は、かなり整備されており、1987年末には、東南アジア最初の地下鉄(MRT、Mass Rapid Transit)が開通し、各地のニュータウンと都心を結んでいる。
 一方、都心部をみると、東京の丸の内に相当するシェントン・ウエイ(Shenton Way)一帯の高層オフィスビル群の景観は、目を見張るものがある。まるで、アメリカ合衆国の都市の中心部の様相を呈している。シンガポールに進出している日系企業の多くも、ここの高層ビルの中にオフィスを設けている。

 そこで見掛けるビジネスマンは、赤道直下の土地にもかかわらず、長袖のシャツを着ている。これは、エリートの印であり、半袖シャツを着用しているのは、多くの場合、地位があまり高くない一般の労働者である。このようなエリートの多くは、たとえ華人であっても、中国語教育でなく英語教育の学校を卒業しており、日本人の目からみると、彼らの行動・思考様式は、かなり西欧的である。

 シンガポールでは、観光産業が重要な地位にあり、超一流の高層ホテルから、ヒッピー的な貧乏旅行者が宿泊する「旅社」と呼ばれる華人経営の安ホテルまで、多くのホテルが各地にある。1986年には、地上73階、高さ226メートル、ホテルとしては世界一高いウェスティン・スタンフォード・ホテルがオープンした。

 この超近代的なホテルの最大のお得意さんは、経済大国日本からの観光客である。しかし、彼らのほとんどが、ホテルのすぐ近くに立っている「日本占領期死難人民紀念碑」と名付けられた塔のことを知らない。シンガポール人の観光ガイドも、敢えてその由来について説明しようとはしない。

 第二次大戦中、シンガポールは日本軍に占領(1942年2月15日)され、その地名も「昭南島」に改められた。占領直後、数千、数万ともいわれる華人が、抗日分子として日本軍によって殺害された。この塔は、彼らの霊を弔うために建てられたものである。

ますます深まる日本との関係

 最近、シンガポールでは、日系のデパート・スーパーマーケットへの進出競争、生存競争が激しくなっている。業界は、まさに戦国時代に突入している。シンガポールに進出しているおもな日系のデパート・スーパーとしては、八百半・伊勢丹・大丸・そごう・東急などがあげられる。とりわけ、八百半(シンガポールでは「八百伴」と書く)は進出の歴史、店舗数からみても、シンガポール人の生活に最も密着したものになっている。「Yaohanは日本最大のデパート」と思っているシンガポール人も少なくない。

 シンガポールの在留邦人は、東南アジアの中で最も恵まれているといえよう。日系のデパートに行けば、日本製の各種日用品はもちろん、あんパン・博多のからしめんたい・鰻のかば焼き、さらに正月にはおせち料理まで購入できる。また、日系デパートのビルには、日本の書店が入っており、日本の週刊誌・新聞・新刊書、あるいは文具用品などが、多少割高ではあるが容易に手に入る。

 シンガポールの周辺諸国に派遣されている日本人ビジネスマンやその家族は、時折、シンガポールを訪れ、日系デパートで食品・生活用品・本などを多数購入して、再び派遣国に戻って行く。彼らにとって、シンガポールは「日本に近い」都市である。


[参考文献]

綾部恒雄・永積 昭編(1982):『もっと知りたいシンガポール』弘文堂
山下清海(1987):『東南アジアのチャイナタウン』古今書院
山下清海(1988):『シンガポールの華人社会』大明堂

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