書 評
 

 「経済地理学年報」(経済地理学会) 

第47巻、第4号、2001年12月31日 

  山 下 清 海 著

チャイナタウン 

世界に広がる華人ネットワーク

丸善ブックス、2000年、208頁、2300円


  
評者:
阿部康久(日本学術振興会特別研究員・名古屋大学)

 「エスニシティの問題を日本の都市地理学において扱う意味があるのですか?現在の状況から考えると、日本の都市形態を分析する際、エスニシティが重要な因子となり得るとは思えないのですが?先生は、どう思われているか教えて下さい.」

 これは本書の著者、山下清海氏が1997年に名古屋大学に集中講義に来られた際、懇親会の席上で、参加者の一人から出された質問である.ご多忙の折にもかかわらず、わざわざ名古屋にまで講義に来て下さった著者に対して、宴会の席上とはいえ、このような「批判的な」質問が出されたのは甚だ恐縮なことであったが、著者は、このような質問をされても、気分を害されるどころか、批判的な質問にも熱心に耳を傾けておられた.評者は、このとき著者の学問に対する真摯な姿勢に、感銘を受けたことを記憶している.

 さて、評者は、上述の質問に対する著者の回答は、本書の内容のなかに示唆されていると考えている.そもそも著者は、その博士学位論文にして主著の一つでもある『シンガポールの華人社会』(大明堂、1988年、163頁)で、シンガポールの華人方言集団のセグリゲーションの形成と崩壊の過程を明らかにした上で、このようなセグリゲーションの変化が生じた背景について考察し、優れた研究成果を挙げてきた.この研究は、シンガポール華人の居住構造の変化を都市社会地理学的視点から明らかにした研究であると言える.

 これに対して、本書において、著者は華人社会とチャイナタウン研究の目的を「人びとを取り巻く諸条件は地域により異なり、それに応じて人びとの生活様式にも地域差がみられる.(中略)本書における私の主要なテーマは、チャイナタウンのこのような地域差と共通点について考察すること」だと述べている.つまり、本書での著者の方向性は、世界中の華人社会やチャイナタウンの生活様式や景観などを比較することによって、対象地域の地域性を探求するというものであり、主に文化地理学的系譜に属する研究であると言えよう.

  このように著者の研究の方向性は、@都市におけるエスニック集団の集住地区について研究する都市社会地理学的研究、Aチャイナタウンや華人社会の地域的差異に注目した文化地理学的研究、の2つに分類することができる.ところが、近年、@の都市社会地理学的研究には、著者の活躍もあって、多くの蓄積がなされつつあるのに対して、Aの比較地域論的な研究は、地理学の伝統的研究手法であるにもかかわらず、あまり多くの研究がなされていないように思われる.

 著者はこれまで、主に日本、東南アジア、北米を対象としてチャイナタウンの研究を行ってきたが、これらの地域に加えて本書では、ハワイ、欧州、オーストラリアの各チャイナタウン、さらには華僑・華人の主要な出身地である福建、広東、海南の各省でフィールドワークを行い、その現状を紹介している.これらの世界各地のチャイナタウンの比較研究を通して、受け入れ国社会の対応による、華人社会の生活様式の変化とその多様性、あるいはいくつかの地域で見られる共通性について、描き出している.

 例えば、本書の内容によれば、同じ東南アジアの華人でも、国民の約4分の3が華人で占められているシンガポールや、華人と現地人との混血が非常に進んでおり、チャイナタウンでも、日常会話としてタイ語が使われているタイでは、そこに住む華人が、自らのアイデンティティを意識することは比較的少ないようである.これに対して、インドネシアのように、政府によって長い間、中国語教育や漢字の使用が禁止されていたり、つい近年でさえ、現地住民による暴動で、華人が略奪、放火、婦女暴行による被害の対象となった地域では、華人の民族意識は必然的に強くなるし、彼らの文化的生活様式やチャイナタウンの景観も、シンガポールやタイとは、大きく異なってくる.このような地域的差異は、現地社会で華人人口が占める割合や、現地社会と華人の文化的背景の緊密さ、といった要因によって生じるものと推察される.

 一方、北米、英仏、オーストラリアといった、「先進国」と呼ばれる国々では、旧来のチャイナタウンが、中華料理店などに特化しながら観光地化されていることや、これと並行して、近年では、香港や台湾などから移民してきた富裕層の華人によって、郊外地域に新たなチャイナタウンが形成されてきているという点では、ある程度の共通性が認められるようである.

 以上、わずかであるが、本書の内容の一部を、ごく簡単に紹介してみた.繰り返しになるが、著者が行っているような、地域の比較研究という視点からの研究は、地理学において古くから提唱されてきた研究手法である.しかしながら、エスニシティ研究においては、このような個別地域の研究を積み重ねながら、それを体系化していくという手法を取る研究者は、著者を除くと少ないように思われる.

 ここで冒頭で出された、日本の都市地理学において、エスニシティ研究を行う意義について論じたい(もちろん、このような大きな問題について、評者ごときが十分に論じることができるかは自信はないのだが).たしかに、日本の都市において、エスニシティが重要な因子ではないという点は、都市の可視的、形態的な側面のみに着目した場合は、ある程度は、認めざるを得ない点なのかもしれない(もちろん、形態論によらない都市のエスニシティ研究という方向性もあり得るだろうが).本書においても、日本のチャイナタウンとして、横浜、神戸、長崎の事例が紹介されているが、日本の都市全体の事例からすると、これらは「特殊な事例」であるということは否定できないだろう.

 それにもかかわらず、本書において、日本のチャイナタウンが取り上げられていることに、説得力を感じられる理由は、中国からの世界規模での華僑・華人の送り出し状況や受け入れ国での現状といったものとの関わりの上で、日本のチャイナタウンの事例を位置づけることができるからだと筆者は考える.

 ただ、残念ながら、本書は一般読者を対象とした書籍であるためか、古くは江戸期から現在にまで至る、日本政府の厳しい中国人移民制限政策については触れていない.できれば、このような日本政府の政策によって、日本においては、チャイナタウンが、ほぼ横浜、神戸、長崎にしか形成されなかったことや、近年においても、同じ「先進国」と呼ばれる国でありながら、欧米やオーストラリアとは異なり、新規の移民による「郊外型」のチャイナタウンが形成されていないことに、多少なりとも触れて欲しかった.

 評者は、今後の地理学におけるエスニック集団の研究では、一都市の内部でのエスニック集団の居住分布を分析するだけではなく、世界規模での人口移動の流れのなかに、対象国、さらには対象国全体のなかでの対象地域の役割といったものを位置づけた上で、地域形成過程におけるエスニック集団の役割について検討していく必要があると考える.本書は、このような視点に立った研究成果の一例として考えてもよいのではないだろうか.

 以上、本書の学術的な方向性と意義について論じてきたが、本書の一般向けの書籍として意義についても論じておく必要があろう.

 私的な話題で恐縮だが、評者は現在、北京の大学で研究活動を行っている.そこでは、華語(標準中国語)を学びに留学してくる華人子弟と知り合う機会も多く、とりわけインドネシア華人の子弟たちと親しくなることができた.

 彼・彼女らは、英語を流暢に操り、普段は陽気で大らかな性格であるが、たまに彼・彼女らの母国の話題になると、インドネシア社会の中国系住民への厳しい差別を嘆く声が聞かれた.そして、彼・彼女らの家族は、カナダやオーストラリアに別荘を購入し、移住することを考えているとのことだった.

 ところが、大学に留学している日本人学生の多くは、彼・彼女らインドネシア華人に対して「海外に別荘があるなんて、さすがに華人はお金持ちだね」、「英語圏の学校に何年も留学できて羨ましい」という程度の理解しか持っていないようだった.

 しかしながら、インドネシア華人が置かれた政治的・社会的状況を考えれば、カナダやオーストラリアに長期間留学し、かの地に住宅を買い求め、市民権を取得しようとしていることは、むしろ生活を守るためのやむを得ない行動だとも言えるだろう.

 このように「華人」という存在を「お金持ち」などといった画一的なイメージで語るべきではないという点は、本書の冒頭でも指摘されている重要な点である.このような考え方を広めるために、著者は、本書や前著『東南アジアのチャイナタウン』(古今書院、1987年、201頁)といった一般向けの書籍や、著者自身の充実したホームページを通じて、世界の華人社会やチャイナタウンのありのままの姿を、一般読者に伝えていく活動をしている.

 そのため、著者のホームページの掲示板には、華人社会についての質問が次々に寄せられているし、著者の研究室には、華人研究について研究のアドバイスを求めるために、多くの他大学や隣接他分野の学生が訪れて来るそうである.このような著者の活動は、地理学という学問分野が、その社会的認知度を高めることに大きく貢献しており、もっと評価されてもよいように思われる.

  最後に、本書の内容について、一つだけ、要望を述べさせて頂きたいと思う.それは、本書のキーワードである「華人」という用語の用法についてである.本書では、著者はシンガポールと日本を例に挙げて『華僑の「僑」は、喬居=「仮住まい」を意味するので、すでに現地社会へ定着している人々を「華僑」と呼ぶのは適当ではない.「華人」と呼ぶべきである』と主張している.この問題について、評者は、著者ほどの知識を持っているわけではないが、いくつかの疑問点を指摘させて頂きたいと思う.

 まず、日本の場合、評者の乏しい経験では、多くのオールドカマーの中国系住民が、自身を「華僑」と呼んでおり、また他人から「華僑」という呼称で呼ばれても、不快感を持つことはないようである.以前、評者が日本華僑の方々に聞き取り調査をしたとき、書物の上では「正しい」とされている「華人」という用語が、実際の在日中国人社会では、ほとんど使われておらず、「よそ者」というニュアンスを含むとされている「華僑」という用語を、多くの中国系住民の方々が、堂々と使っているのを聞き、大きな戸惑いを感じたものである.

 そこで、評者が1996年に、東京華僑総会の副会長(現会長)に問い合わせたところ「日本においては、現在でも華僑という名称を用いているので、華僑と呼んで頂いて結構」という「公式」な見解を頂いた.つまり、日本においては、中国系住民の人々が、自らを華僑と呼んでいるのに、日本人の側から華僑ではなく「華人」という用語を使うべきという主張がなされているのである.

 言うまでもないことだが、用語の意味は、日々変化していくものであり、「僑」の原義が「仮住まい」で、中国系住民の人々の現状を正確に表していないからと言って、直ちに用語の修正を行う必要はない(そんなことをしていたら、毎年、多くの日本語の修正を行わなければならなくなる).

 恐らく、著者の主張は、東南アジアでは「華僑」という用語が「よそ者」といった差別的なニュアンスを持って使われるので好まれず、「華人」という用語が用いられているので、日本でも「華僑」ではなく「華人」と呼ぶべきだというものであろう.だとすれば、東南アジアの中国系住民に関しては、「華僑」ではなく「華人」という用語を用いるよう主張することは、極めて妥当なことである.

 しかしながら、日本の中国系住民については「日本に定着している者も含めて中国系住民のことを華僑と呼ぶ」という合意が、すでに中国系住民・日本人双方の間で存在し、その用法が定着しているのであるから、あえて東南アジアに合わせて、日本の中国系住民のことまで、「華人」というなじみが薄い(というより、実際には日本国内の中国人社会ではほとんど使われていないと言ってもいい)名称に変更を求めていく必要はないのではなかろうか.

 むしろ、華人社会の多様性を紹介するという、本書の目的を考えれば、「中国系住民」を表す用語の多様性を認めるべきではないだろうか.そして「華僑」や「華人」という用語が、地域によって、どのような意味で用いられ、ある地域では不快な意味で用いられるが、別の地域では違った意味で用いられているという点を考えていくことの方が、画一的な「言い換え」を行うよりも、はるかに中国人社会を理解する助けになると考える(蛇足ながら、評者なりに、日本においては「華僑」という用語が、ネガティブな意味を持たなかった理由を推察すると、第二次大戦期以前においては、「華僑」という用語ではなく「支那人」という、本来は差別的な意味を含んでいなかったはずの言葉が、少なからぬ日本人によって、差別的なニュアンスを持って用いられ、中国系住民の人々に不快な用語として認識されていったからであると考えている.そして、日本の中国系住民の人々は、「支那人」という用語に、日本人が用いるときにのみ不快感を持つようになった.それとは反対に、本来「仮住まい」という意味を含む「華僑」という用語は、幸いにも差別的なニュアンスを持つ用語として使われることは少なく、彼・彼女らが日本社会に定着した後も、愛着を持って使われるという、いわば、ねじれ現象が起こったのではないだろうか).

 以上、評者から見れば、多少、違和感のある点もあったが、本書は、世界のチャイナタウンと華人社会の現状を、分かりやすく紹介した優れた一般向けの書物であると同時に、研究に携わる者でも、学ぶところが多い良書であると感じた.