『サティア』 第42号(2001年4月)  発行:東洋大学井上円了記念学術センター

 

 日 本 の 中 の ア ジア
−大久保エスニックタウン−

 

山 下 清 海

 

 一九八九年二月二四日、大喪の礼。この昭和天皇の葬儀の日、私はちょうど東京出張中の中日で、公務も休みとなった。さて、どうして過ごそうか。ホテルから外に出てみると、ほとんどの店は臨時休業。レストランさえも。日中なのに、寝静まったかのような大都会東京。どこか開いているレストランはないか、と考えているうちに、大学院生時代にシンガポールに留学していた当時のことを思い出した。

 農暦新年、春節、チャイニーズ・ニューイヤーなどとよばれる旧正月。私の住んでいた学生宿舎のある南洋大学のキャンパスのすべての食堂も休業。私の研究対象であったチャイナタウンも、旧暦の大晦日まではアメ横的に賑わっていたが、春節は別世界のような静けさ。「とにかく、何かをお腹に入れなければ・・・・。さて、どこへ行ったら・・・・?」と、頭の中にシンガポールの地図を思い浮かべた。こんな時、私が専攻している人文地理学の知識が大いに役立つ。総人口の四分の三を華人(中国系住民)が占めるシンガポールの市街地の大部分は、一九八〇年ころ、チャイナタウン的な様相を留めていた。その中に、インド人が多く住む地区があった。春節、私はそこに行き、通常通り営業していた屋台街で空腹を満たすことができた。

 このときの経験から、「そうだ。大久保なら・・・・」とひらめいた。東京の中でもアジア人が多く住むようになった大久保なら、大喪の礼当日でも通常通り営業している店があるかもしれないと。実際、そこへ行ってみると、大喪の礼の日にも中華料理店、韓国料理店、東南アジア系のエスニック料理店などが営業していた。

  ミスマッチ的なおもしろさ


 JR山手線の新大久保駅、JR中央線の大久保駅の周辺一帯は、一九八〇年代頃から、韓国、中国、東南アジアなどアジア出身の外国人が多く住み始めた。私は、ここを「大久保エスニックタウン」と呼んでいる。この地区には、外国人向けの日本語学校が集中しており、また、家賃が安い老朽化した木賃アパートが多いことも、物価の高い日本で暮らす外国人を引きつける。新宿の隣という恵まれたロケーションは、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロンドン、あるいは横浜中華街などの都心に隣接するチャイナタウンを思い出させる(山下清海著『チャイナタウン・・・・世界に広がる華人ネットワーク』丸善、二〇〇〇年、参照)。

 大久保エスニックタウンは、ミスマッチ的なおもしろさをもった街でもある。ここには、日本語学校、予備校、各種学校、音楽教室などが多い。若者たちが勉強する学校が集まっている一方で、この地区にはラブホテルも集中している。予備校の隣が、ラブホテルというところもある。予備校生は、横目でそれを見ながら、どのような思いで受験勉強に励んでいるのか、と余計な心配をしてしまう。

 私は、毎年、野外調査(フィールドワーク)の実習を兼ねて、学生を連れて大久保エスニックタウンを歩き回ることにしている。その際、路地に立ち並ぶ南米系(コロンビア系が多いという)の金髪女性から声をかけられたり、道端に立つ彼女らから集金して回る日本人の暴力団関係者にも出くわしたりする。


  
エスニック料理の魅力


 新大久保駅と大久保駅とを結ぶ大久保通りの脇道を少し入ったところに、「百人町屋台村」がある。決して立派な建物ではないし、広くもないが、ここの雰囲気は、まさにリトルアジアである。店内には、インドネシア、ベトナム、タイ、中国などの料理を提供する屋台がある。客がテーブルに付くと、それぞれの屋台から写真付きメニューをもって、注文を取りに来る。「コレ、オイシイ」とすすめる横で、「ジャマシナイデ。ワタシ、サキ」と注文取りの娘さんどうしが、たどたどしい日本語で言い争う。ベトナム式生春巻、タイのトンヤムクンスープ、インドネシアのガドガド(サラダ)、マレーシアのミーゴーレン(焼きそば)などを食べていると、東南アジアを旅行している気分になる。

 大久保から新宿歌舞伎町方面へ向かうと、通称、職安通りという大通りに出る。この通り一帯は、地価も高くなり、中国や東南アジア出身の外国人より豊かな韓国人が経営する店が多くなる。ここ数年、韓国人の出店ラッシュはめざましい。韓国人ニューカマーズの増加に伴い、「韓国家庭料理」の店が増えた。店の規模は小さいが、石焼きビビンバ、チジミ(韓国風お好み焼き)、カルビ、冷麺などが安くておいしい。ソウルの南大門市場の食堂のメニューを、ここで味わうことができる。

 日本の国際化が叫ばれるようになって久しいが、大久保エスニックタウンは、ほんとうの国際化を肌で実感できる場所である。

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